「天気の子」の「愛」の変化の分析とオリンピックについて書いてみた。

「天気の子」(新海誠)ではラッドウィンプスによる楽曲が五曲も用いられています。中でも{愛にできる事はまだあるか」は本作を象徴する曲です。この曲は廃屋で警察と対峙するシーンとエンドロールの二回に用いられたいます。この二つのシーン、よくよく考えると「愛にできる事」が全く異なっています。一方は「戦う」ことでありもう一方は「助け合う」ことです。

・「天気の子」の作中での愛にできることの変化
物語の序盤は「助け合う」愛があふれています。
・陽菜さんのビックマック
・須賀さんの住み込みバイト
これらのお陰で帆高は東京で生き延びれました
そして「晴れ女のビジネス」は天野姉弟を貧困から救うためのものであり依頼者に只々喜んでもらう為のものでした。

ところが幸せも束の間、児童相談の職員が天野姉弟を問題視したり帆高が警察から追われたりして逃げなければいけなくなってしまいます。ここからは三人は助け合っているが世間や警察とは対峙する事となります。そして以下の行動に出るのです。

・雷を落とす
・銃口を向ける、発砲する
・飛び掛かる、殴る

誰かを愛するが故の行動です。その結果「戦い」に発展しました。

ラストでは人々は不自由もあるが支えあって生きています。

・堤防を築く
・鉄道に代わる水上バスを走らせる

そんな世界で生きて行く事を誓います。そこでの「愛にできる事」とは。

こうして見ると「天気の子」は不信感、切迫感から「愛にできる事」が変化していく様を描いた作品とも見る事が出来ます。「助け合う事」から「戦う事」に変化し事件が起き、最後は「助け合う事」で乗り切る世界になりました(そう選択した?)。

そしてこれから問題にしたいのは「戦う」という愛にできる事の形です。これ、人々を戦争に駆り立てるような愛なのです。

・「戦う」と言う愛にできることの形と先の大戦

要するに愛する人を守るために自分は死んでゆくとういう愛にも通じる愛なのです。先の大戦で散華された方々は日本を守るために戦ったのです。列強諸国の植民地政策の魔の手が迫って来て石油の輸入経路も絶たれた状況で侵略せれるのも時間の問題。追い詰められた状況の打開策として戦争に突入していったのです。また戦争末期は連日のように空襲され本土においても死の恐怖を感じるようになりました。そんな中敢行されたのが特攻作戦でした。隊員の遺書は残された家族を案ずるものが殆どです。こうした追い詰められた状況で「愛国」と言う言葉が広まり戦争が正当化されていったのです。

詳しい歴史的な経緯は太平洋戦争とは何だったのか(福島宏希)を参照されると良いかと思います。

ここで私が強調したいのは
・日本は追い詰められていた事
・植民地にされたら人権なんて奪われる事
そんな世界の中で
・愛する人を守るための戦いを敢行した事

です。戦うという「愛にできること」の形が爆発してとんでもない事になったのですね。

コロナ禍での「愛にできること」
この戦うという悲劇を生みかねない「愛にできる事」が現在日本でもくすぶってるように感じます。未だ爆発していないのですがこれから先の不安要素でもあります。

自粛要請の中で観光業や飲食業、娯楽産業等は大打撃を受けています。休業補償も充分に無く廃業に追い込まれた店も数知れず。政府は「緊急事態宣言」や「蔓延等防止措置」等を度々発出して経営者を翻弄させています。そんな中で不満の声や焦りの声も至る所で聞かれるようになってしまっているように思います。このお二方のTwitterでえも

いつもは新作の制作風景や鑑賞記録をほのぼのとツイートされる監督にしては殺気立ってるような気がしないでもないです。映画を愛するが故のツイートですね。

野田さんも心境を吐露されています。

このように愛する何か(産業、青春、趣味、文化などなど)を守るために何かしなければならないという空気が全体に広まっています。戦うという「愛にできる事」の形の輪郭が徐々にはっきりとしてきているように思います。
東京オリンピックはこのような空気の中で行われたのです。平和の祭典として考えた時にこの状況で開催して良かったのでしょうか?人々を戦争に向かわせるような愛がくすぶっている国で。更に悪い事には「#バッハ帰れ」です。国民には移動の自粛を求めておきながらバッハ委員長は全国を回っている事への国民の不満ですね。他にも諸々の行事が中止になったのに何故オリンピックは出来るのだという矛盾から怒りの声も聞こえてきます。平和の祭典が火に油を注いでどうするんですか!

 いろいろと思う事はあるかもしれません。未だ声を上げるという戦い方で済んでいます。人間皆立場が違うのでこれぐらいの衝突は仕方が無いという考え方もできます。ただこのまま理不尽な締め付けが続くといつかは「愛にできること」が爆発するのではないでしょうか。平和の祭典やっておきながら、それどころかそれが切っ掛けで暴動に発展したら目も当てられないですね。成和の祭典として成功させようと考えるならまだまだ課題が多い、と言うかよりによって神はその課題を日本に課したなと思います。不満を和らげていきワクチン等で「大丈夫だ!」と言えるようになるか、取り敢えず抑え込めてるうちは平和という事でいいのか、あるいは爆発してしまうのか。私達、選択を迫られていますね。

それにしてもこの作品を20021年の設定で世に送り出した新海監督はすごいなあ。。。歴史は繰り返すというから人間観察をしていればたまにはこういう偶然もあるものでしょうか?
そして世間では「#バッハ帰れ」という声が上がる中でオリンピックを盛り上げようとしている野田さんも凄いな。中止や自粛の損害をもろに受けてもなお助け合う、協力し合う愛の形があふれています。それだけに彼の歌は更に力強く感じます。

呑み鉄にゃんこ的調性観で「夜に駆ける」の転調を読み解いてみた。

「夜に駆ける」の作曲の特徴としてよく指摘されるのが転調がユニークだという事だ。J-popによくあるのは曲の最後に盛り上げるためキーを上にずらす転調である。それに対しこの曲では一旦下がってまた上がる転調をしている。
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ポップスだけの話ならこれでいいかもしれない。だけどクラッシック音楽の世界には調性の性格という考え方も存在する。調性(キー)毎に性格があるというものだ。検索すれば偉大な作曲家や学者の様々な考察が出て来る。しかし、なんか丸暗記しなきゃいけなそうで難しい。大体の目安だと以下の通りになると私は思う。

私は楽譜を開き最初に調号を見た時こんなことを考えている。調号が少ないほど若く多いほど年を取る。#は男性♭は女性と言うイメージだ。純粋なハ長調から二つ三つ調号が付く辺りが一番調整の性格が出て来て沢山ついてると淡い感じになる。ハ長調は赤ちゃんで一つ付いたくらいが小学生。二、三個が十代から二十代の若者。#二つ(ニ長調)と三つ(イ長調)の違いは校則で黒かったり野球部で丸刈りだった頭が大学の入学式で茶髪だらけになるような感じ。四つ付くと落ち着きが出て来る。五つ以上は何か悟ったような、危うくあの世と繋がってるよう感じ。

改めて「夜に駆ける」の転調についてみてみる。始まりは♭三つでずっとそのまま物語が続いて曲が大きく動くところで#二つ。更に最後は♭一つに転調している。大きく動くところは彼女が初めて笑った後のところ。彼女にリードされて行く所である。力強い#系の性格をはっきり出して引っ張って行く感じだろうか。最後の♭二つは初めの調に対してハ長調に近い純粋な調である。忙しい日々から何かしr純粋な心を取り戻したような感じである。

・最初の転調で引っ張って行く。
・引っ張られた結果次の転調で純粋な気持ちに繋げて行く。

ではやっぱり男女逆転していないか?と思われるだろう。上記の表は私が作ったものだが気に食わない部分もある。ジェンダー的な固定観念がもろに入っているから何とかしたいなと思っている。しかし、言葉と言うものは長年の文化の積み重ねの中で作られるようなものである。一日二日で創造するのは無理だ。だから男性的とか女性的は分かりやすい表現になってしまう。なので「男性的と言うけど一昔前までは確かに男性に求められた役割だけど今はそんな事気にする事無い何か」と言う感じで捉えて貰えたらと思っている。

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「夜に駆ける」は性別逆転のシンデレラストーリー?

自殺の歌が流行歌になるとはどんだけ日本の若者は病んでるんだ。まあその昔川端康成と言う小説家がいて「虹いくたび」や「山の音」という作品を世に送り出し評価された国ですから昔からなのかもしれませんが。因みに川端先生の最期は自殺です。

いろいろと歌詞に謎めいたところがありますが結局のところシンデレラスターリーなのです。アレ?主人公は男でしょ?って思ったでしょう。そうなのです。性別逆転で違和感なくシンデレラストーリーを書いているのです。

ポイントは
・主人公が男性としてリードすることに疲れてしまう。
・彼女がリードする。

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先ず「生きづらくする要因」です。主人公はこいつのせいで辛い思いをしているのです。シンデレラとかのディズニー映画では年上の女性、継母やお姉さま方、お妃さまが意地悪をします。それでヒロインはつらい思いをします。「夜に駆ける」では「チクタックと鳴る世界~涙がこぼれそうでも」とか「変わらない日々に泣いていた僕を」と言う所から「ブラック会社に勤め」(原作小説より)る日常に疲れています。そしてそういう世界で彼女をリードしていこうとする、男性として求められる役割を果たそうとしています。そして「『終わりにしたい』」と「釣られて言葉にし」ます。

「生きづらさから解放する人」はデイズニー映画の「王子様」や「夜に駆ける」の「彼女」というように理想の恋愛対象の人なのです。

こうして見るとどっちも同じようなあらすじだと思いませんか?生きづらさを感じる主人公が理想の人に救ってもらうお話なのですよ。その役割が違和感なく逆転してるのです。ジェンダーとかそういう問題をクリアーさせているのです。

「夜に駆ける」では「君は初めて笑った」の前の主人公の奮闘からも男性が女性をリードするのが当たり前というジェンダー的な縛りを描いています。

まさにジェンダーレス化が進行中な現代にピッタリな流行歌ですよ。この時代に流行るべくして流行った歌なのですよ。

で、彼は本当に死んじゃったのかな?死んじゃったのはこれまでの彼ら自身でMVのラストのキスで毒りんごが出て来ないかな?

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それにしても小説を原作にした歌と言うのも斬新ですね。漫画を原作にした替え歌なら私が動画を作ったアレがありますが。。。