「子ども」にとって夷族とは?

初出2018年1月6日ブログ雑記林

「星を追うこども」の「こども」の意味はどのようなものだろうか。何か手が届かないものを追い求めているという意味があるようだが果たしてそれだけであるのだろうか?
・島崎藤村「破戒」との類似点
アニメ作品との指摘は多いが明治期の長編小説である「破戒」(島崎藤村 1906年)ともよく似た作品である。アスナは「先生」に付いて行くが破戒の主人公瀬川丑松も猪子「先生」に影響されて自らの血筋を明かし社会運動を行う。星を観に地上にやって来たシュンは年長者の忠告を振り切った行動を取るところも瀬川丑松の行動に通じるものがある。それから生死の門でモリサキはアスナに「君にはここに来て欲しくは無かった」と言いつつも自らの目的の達成を前にして欲が出てしまいアスナを依代にされそうになるのを停めることができない。人間の欲等の負の一面もそのまま描く自然主義文学に通じるところがある。
・アスナは差別されている
そして何よりアモロートの人々や夷族たちの発言や行動は差別的だとも言える。アスナを血筋で差別し命まで狙っている。「破戒」の主題も同和問題である。江戸幕府の頃に時の政府によって差別された部落民やその子孫が戸籍上は平民であるが就職や結婚の面での差別は根強く残ったものである。
・「子ども」から見た差別
この差別、特に夷族によるアスナに対する差別については大変理不尽なものである。なぜなら映画ではこの理由が明かされてないのだ。暗にほのめかされているが正面から明かされていない。なぜ殺されなければならなかったのだろうか?モヤモヤとしたものが残る。
その理由は「子ども」の視点で書かれた作品だからではないだろうか。子どもにとって血筋や歴史、家庭の事情などは関係の無いことだ。同じ学級に国外からの転校生が来ても日本語が不自由な事をのぞけば特に問題の無いことだ。家庭の事情はよく判らないまま何年のあっていない。小学生の付き合いだけでは判らないままであろう。もしかしたら映画の裏設定として特殊な家庭の事情のアスナのクラスメイトが存在するかもしれない。

だが、世のには「今ある世界を保とうとする仕組み」(「星を追うこども」より)が存在する。パスポートやビザによって国境を越えた移動については管理されているし、外国では選挙権は無いし就労ビザ無に働くことができない。いくら難民と言い張っても認定されなければ送還されてしまう。可哀想だが仕方ない。この仕組みを取り払ってしまったために治安が悪化した例もある。ドイツのメルケル首相はシリア難民を手厚く保護したために国内の治安が悪化し国民の不満がたまったのは記憶に新しい。このように夷族のやり方は強引すぎるにしても差別や区別は普通に存在してそれに私たちは守られている。
もしある小学校で生徒が一人不正入国で送還されることになったら同級生はどう思うだろうか。友達が一人突然いなくなる。特に低学年にとっては理不尽で悲しいだけの出来事であろう。子どもに罪はないと在留を支援する大人が現れる程である。「子ども」にとって判らない事であって理不尽この上ない。

映画「星を追う子ども」での夷族の行為の理由も「観客」にとって判らない事であって理不尽この上ない。映画では明かさないことによって子どもが感じる理不尽さを体験させる。そして他のメディアによって更に詳しいヒントを与えられたり秘密を明かされることによって「スッキリする」のは大人になる、大人の視点で作品を観るということでもあるのではないだろうか?
追伸 「渡瀬明日菜」の瀬は「瀬川丑松」の瀬?川を渡るという意味なら他の川を意味する文字を充ててもいい筈。「沢渡」のように。

「星を追う子ども」は深すぎる作品

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