映画は「夢」  「君の名は。」論

twitterの新海誠監督自身のアカウントでラストシーンのプロットの一部が公開された。それによると初めから二人が出会う事は決まっていたようだ。しかし、両者の名前を思い出していることろに違いが見られた。どうやら「思い出す」物語のようだ。

このTwitterのツイートを見て欲しい。一時停止してノートや新聞、週刊紙の紙面を詳しく読めるようにしたものである。一瞬だけしか登場しないのによくここまで手の込んだものを作っているなと思う。本編を一通り見ただけでは判らない、読みきれない。何か一瞬で通りすぎてしまって詳しいことは覚えていない。けれど何かが残る。「夢」のような映画なのだ。映画館で映画を見る時はもちろん一時停止なんてできないから映画ドロボーみたいなことしない限りは忘れてしまう。映画館とはカクリヨのようなところだ。しかし、ソフトの発売やテレビ放送された映像を録画することにより一時停止して詳細を確認することができる。これが思い出す事ではないだろうか?あの時のあの感覚は何だったのかと気づくことができる。

映画は一過性のメディアと言うことを利用して「夢」を演出していた。そして記憶媒体に録画されたもの一時停止しよって我々が「思い出す」ことで物語が完成する。これが「君の名は。」の正体なのではないだろうか。「アニメーション映画という形がいちばん相応しい」(「小説 君の名は。」2016年6月新海誠P254)というのはこの事なのだろうか。

覚えていない大切なことを時間をかけて思い出す。プラトンの起想説を思い起こさせる仕掛け。映画が公開されてからソフトの発売やテレビ放送、それから「一時停止」により大衆が気がつき広まるまでの時間。この時間を利用した新手の時間芸術だったのではないだろうか?もしかしたらあのプロットを公開したのは「思い出して欲しい」というメッセージを多くの人がテレビ放送の録画により一時停止できるようになった段階で伝えているのかもしれない。

 
「君の名は。」についていろいろ語ってみた

 

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