私たちも引き裂かれている。

初出2017年12月31日ブログ雑記林

私が初めて「君の名は。」を見てから一年が経っていた。調べてみたら去年の十二月十九日であった。図書館の視点で観たら非常に奥が深く面白い作品であり、この国の歴史や文化の奥深さや壮大さに改めて気付かされた一年であった。少し過ぎてしまったが一年経ったということで一度「君の名は。」について書いてみたいと思う。図書館がどうのこうのと長ったらしく言ってきたがこう言えば良かったのだ。引き裂かれているのは私達と万葉の時代の人々だと。

当然であるが千二百年前の人々と直接会って話をすることはできない。会いたいとどれだけ願っても叶う筈がない。彼らが何を思い何をしていたのか。

言葉が時間をこえて伝わるまで。書かれたものが収集、保存され後世に提供される。

そこで重要な役割を果たすのが書物等の資料であ。そこに書かれていることを頼りに私達は彼等の存在を知り思いを受けとることがでできる。その書物を保存しているのが今で言う図書館である。極端なことを言うと野ざらしにされたりした書物は失われ後世に伝わらない。

そうやって私達は千二百年の時間差を克服し触れ合おうとしている。然し名前や顔立ちが伝わってこない場合も多い。「誰そ彼・・・。」の歌もその一つで作者の詳細な情報は伝わっていない。大伴家持等が編纂し以後多くの努力の甲斐があって思いだけが伝わりそれに触れることができる。私もこの才女に是非会ってみたいと思うがそれは叶わない。しかし、千二百年の歳月を前にすればその才能に触れられるだけでも幸せなのだろう。

さっきから「会いたい」「会えない」の繰り返しでなかなか前に進まず読者には申し訳ないと思う。だがこのもどかしさこそが「君の名は。」は勿論、新海誠監督作品に通底するテーマでもある。かつての恋人に「会いたい」と思っても便りが絶えてしまっていて「会えない」。愛している人と「会いたい」と思っても相手が死んでしまっていて「会えない」。そしてお互いの存在を知っていて「会いたい」と思っても生きている時間や場所が違うため「会えない」。
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また、新海作品では失ったものが主人公らのその後の人生を後押しするようにして終わっている。「雲のむこう、約束の場所」(2004年)のエンディングテーマの歌詞。「秒速5センチメートル」(2007年)の成人後の二人の独白。「星を追う子ども」(2012年)の「喪失を抱えてなおも生きろ」「でもそれは祝福でもあると思う」というセリフ。それから彼等のその後の人生を想像すると決して暗いものではない。強く逞しい人生の歩みを感じさせられる。

「君の名は。」(2016年)の場合は幕切れにせず「その後」まで描いている。三葉は町民を救う。そして生き延びることができる。瀧は就活に励む。どうやら就職という形で目的を達成することはできなかったようだが何かしらの行動を起こせたのは三葉に導かれたあの「今はもう失われた町」への旅の経験だったようだ。

ではもう一人の名前が失われた人である「誰そ彼・・・」の作者は何をしたか。物語の中では「カタワレ時」に二人を導いた。あの歌が「黄昏時」や「カタワレ時」という言葉を産み、二人が出会う鍵となった。そして現実の世界では社会現象を引き起こすことになった。あの歌、この言葉がなければ「君の名は。」は生まれなかったであろう。彼女の存在なしには一つの日本の文化はない。この時代そのものが失われた誰かによって創られたとも言える。他にも「とりかえばや物語」の作者も不詳である。

新海誠監督作品の物語の中で描かれたこの関係は今を生きる人々と万葉の時代の人々との関係とも言える。こう考えると新海ワールドは物語を飛び出したのであろう。
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