「ハイ」な一面もあるのが「君の名は。」の凄いところ・・・「大人の教養として知りたい すごすぎる日本のアニメ」(岡田斗司夫 2017年)を読んで

「大人の教養として知りたい すごすぎる日本のアニメ」(岡田斗司夫 2017年)の「君の名は。」の章を拝見した。宇宙とか組紐を通じての「構造」の解説は私にとって盲点であった。如何に私が図書館しか見ていなったかを痛感した。そして「ロードラマ」と「ハイドラマ」という分析も面白い見方だなと思った。「ルック」の話で「写真よりイラストが上」というのは撮り鉄をやっているとよく分かる。都会の駅では一般の利用者の肖像権の問題や撮影の為に無闇に立ち止まれない事もあって敗北感を感じる。なかなか理想の撮影地というのは見当たらない。変わった列車が走る時の有名撮影地は場所の確保が競争だ。私有地の不法侵入や木を勝手に伐採するといった犯罪行為に走る輩も出て来る。いっその事絵描きに転向すれば良いのにと思う。
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新海誠監督作品について考えたこと
 「君の名は。」は確かに分かり易い、ベタなストーリーという一面もある。然しその一方で難しい、抽象的な「ハイドラマ」みたいな表現もしっかり用いている。割れた彗星の眺めは「ただひたすらに美し」いしテレビのアナウンサーは「幸運なこと」と言い出す一方で三葉達は生死を懸けて奮闘している。これは果たして「良い眺め」「良い事」なのだろうか?

曲がクラッシック音楽級
 そして音楽も秀逸。ポップスに多い歌詞でベタな気持ちを事細かに説明する曲とは一線を画している。完全五度のぼんやりとした何とも言えない心境を表していたり天に向かって訴えかけるようなリズムと跳躍が使われておりヴィヴァルディのコンチェルトみたいだったり。それから何が「もう少しだけ」か分からない、はっきりしない詞で説明されないまま何かが積もりに積もって爆発したりしている。出会えたのに何故か「淋しさを感じました」と天の声みたいに歌う。
 そしてただひたすらに美しい彗星や風景を見せて視聴者の心に何か訴えかけているとも思う。それも言葉では語られていない。
 そう考えると作家性とかは諦めらめられたりしていないと思う。大衆性と作家性の双方向から攻めて来て前人未到の領域に達した作品だと思う。エンドロールで立つ人がとても少ない作品であったそうだ。それは「めでたしめでたし」で終われない証では無いだろうか。
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前作でも大衆化の試みが
 別の作品の話になるが「言の葉の庭」のラストでは階段で言い合いになるシーンがある。それは新海作品にしては変わったシーンで分かり易いシーンでもある。新海作品のセリフは詩や呟きが多い。感情は曝け出すよりは滲み出るのが作風であると思う。こうして見ると「君の名は。」以前から「ロードラマ」みたいな試みをしていたと分かる。そのシーンも「光」や「雨」、それから表情で伝えようとする演出を抜かないのが新海らしい。そして「君の名は。」にも通じるであろう。
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新海誠監督作品について考えたこと

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