私達は戦争を止められない事があると思う。 「天気の子」って熱狂的になっていいの?

 私達は約80年前に生きていたら戦争を止められなかった思う。「天気の子」に対する皆様の反応や社会の空気を見ているとそう感じる。

 廃ビルでの須賀の言動を分析すると作品の恐ろしさがよく分かる。彼がやっていたことは・・・

・帆高に「話せば分かってもらえる」と言って出頭を促したり突入して来た警察官に「ちゃんと説明しますから」といって彼らをなだめたりして対話での解決を試みた。

・「だいたいさあ、あんたらだって酷えだろ!?」と警察の実力行使を批判した。

・あの場で一人だけ武器を持たず両手を挙げ人間の盾になっていた。

 つまり反戦、平和運動の見本市になっていた訳である。

 そんな彼が正義の味方である主人公を裏切ったり見捨てたりした人とされたり、最終的には上手く行かず彼自身も暴力を振ってしまっているのだ。平和的な解決手段が機能しない中各々が「正義」に向かって突き進み衝突しているのだ。衝突の規模が10人にも満たず小さく幸いにして死者が出なかったから良かったものだがこれを国同士でやってしまったものが戦争なのだ。果たして、私達はこんな映画に熱狂的になって良かったのだろうか。

 大東亜戦争はアジアの解放が目的であった。当時、欧州の列強諸国はアジア、アフリカの大半を植民地としていた。そしてその土地の人々を人間扱いせず働かせ搾取していた。そして日本にも大陸の権益に関し不平等な扱いをしたり石油の輸入を断ったりして追い詰めていた。それを打開しようと反撃を開始したのが真珠湾攻撃であった。だから日本としては理不尽に追い詰められたのだから従うのはもっての外で反撃することが正義だったのだ。国民もこれを信じ熱狂的になり加担していった。一方米国や列強諸国としては「当時の常識」から強い者(国)が支配して当然なので「こんにゃろう」ということになった。こうして平和を維持するための国際連盟も機能せず戦争に突入していったのだ。結果として多大な犠牲を払ったが植民地支配に終止符を打つ事に繋がった。
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 こうして見ると「天気の子」と戦争は本質的に同じで帆高に賛同する事は戦争に加担したのと共通する面があるように思える。だからと言って帆高が捕まったり出頭してしまったらどんな結末が待っているかと想像すると無念な結末であっただろう。結果的に死者が出なかった「天気の子」の作中の事件にしても植民地支配を終わらせたあの戦争にしても本当にあれで良かったのだろうか。私は結論を出せず悶々としている。

 この映画は今も昔も変わらない、「平和ボケ」と言われる日本人も持っている人間の性を炙り出しているのではないだろうか。追い詰められると平和的な手段が機能しなくなり「正義」に熱狂的になってしまう人間の性を。「知らんぷり」を続ける恐ろしさについてより深く考えさせられる。

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